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太田述正 ★
2022/03/22(火) 06:46:37 ID:ohtanobumasa
防衛省OB太田述正の掲示板★3
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太田述正
2026/02/04(水) 18:30:14 ID:YkFNd4Kp
いやあ、こいつには驚きました。
利家もまつも日蓮宗信徒ではなく、当然、その間の子である利長も同様で、その跡継ぎは、利長の異母弟の利常だったことは知っていたけれど、利常の母が寿福院で彼女が日蓮宗信徒であったことは知りませんでした。
しかも、寿福院が、「徳川家康の側室蔭山殿<・・頼宣、頼房の母・・>と親しく、ともに日蓮宗を篤く信仰し<、>甲斐身延山久遠寺の五重塔、身延山奥の院思親閣祖師堂、正中山法華経寺の五重塔、鎌倉の長興山妙本寺の五輪塔、京都具足山妙顕寺の十一重石塔などを建立した他、安房国の誕生寺に法華経を奉納している。寛永8年(1631年)、加賀藩江戸屋敷にて死去。池上本門寺で荼毘に付された後、金沢の経王寺にて再び葬儀が行われ、能登の妙成寺に納骨された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BF%E7%A6%8F%E9%99%A2 とは!
利常には普通の戒名がつけられ、その墓所もウィキペディアには、単に、「野田山墓地」とあり
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E5%88%A9%E5%B8%B8 ましたから、彼が日蓮宗信徒じゃなかったのは明らかでしたしね。
だから、前田氏の日蓮主義度は大したことはなかったので、幕末期の加賀藩は、「鳥羽・伏見の戦いにおいては、王政復古の大号令を「薩州家奸臣共」のせいであるとし「内府様江御協力」するためとして出兵を決めている。しかし、鳥羽・伏見の戦いはわずか3日で決着。在京の家老・前田孝錫は朝廷に呼び出され、加賀藩の動向を「佐幕之国論」であるとして厳しく問い質される事態に。孝錫は「御国之興廃」に関わる一大事であるとして急ぎ国許へ使者を派遣、小松まで進軍していた軍勢は金沢へ引き返すというドタバタを演じた。その後、加賀藩は勤王で藩論を統一し、北越戦争にも新政府側で参戦している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E6%85%B6%E5%AF%A7 と醜態を晒した、と、思い込んでいた次第です。
しかし、後知恵的に申し上げれば、家康には、前田氏の危険性は分かっていたみたいですね。
「元和2年(1616年)4月、家康が死の床に就いた際、枕元に来た利常に対して「お点前を殺すようにたびたび将軍(秀忠)に申し出たが、<自分の娘を利常に嫁がせていた>将軍はこれに同意せず、何らの手も打たなかった。それゆえ我らに対する恩義は少しも感じなくてよいが、将軍の厚恩を肝に銘じよ」と述べたという(『懐恵夜話』)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E5%88%A9%E5%B8%B8 前掲
なお、この利常は、嫡子の「光高の正室に家光の養女大姫(<日蓮主義藩である>水戸藩主徳川頼房の娘)を迎えて」もいます(上掲)ね。
これでは、むしろ、加賀藩の幕末の醜態をもたらしたものは何だったかを解明する必要が出てきました。