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太田述正 ★
2022/03/22(火) 06:46:37 ID:ohtanobumasa
防衛省OB太田述正の掲示板★3
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太田述正
2026/02/04(水) 22:21:26 ID:YkFNd4Kp
解明は案外簡単でした。
前田綱紀(1643〜1724年)の「父・光高は正保2年(1645年)4月に31歳で死去した。このため、6月13日に綱紀が3歳で家督・遺領を相続することとなった。藩政に関しては祖父の利常(寛永16年(1639年)家督を光高に譲った)が後見することを、幕府より命じられた。・・・
万治元年(1658年)7月27日、綱紀は保科正之の娘・摩須と結婚する。・・・
万治元年10月に利常が死去すると、岳父の保科正之の後見を得て藩政改革を行なうこととなる。・・・
綱紀は正之の思想に大きく影響を受け、それはその後の彼の政策に反映されてゆくこととなる。綱紀の藩政を「正之の模倣」とする指摘もある。・・・
元禄2年(1689年)には将軍徳川綱吉から御三家に準ずる待遇を与えられ、100万石を誇る最大の大藩として、その権威を頂点にまで高めた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E7%B6%B1%E7%B4%80 ということを踏まえれば、hr20fyepクンが紹介してくれた前田氏の「伝統」は、恐らく利常が始めたもので、光高もそれを踏襲していたために、綱紀も人となった頃から踏襲せざるをえなかったものの、その時点で、この「伝統」は形だけのものになったのではないでしょうか。
というのも、綱紀に決定的な影響を与えたところの、彼の岳父の保科正之は、下掲のような人物だったからです。↓
「大姥局は、その侍女の静に秀忠を誘惑させて男の子をもうけさせ、この子を、光圀も真っ青の日蓮主義者、但し、そのもどき、にすることまでは成功したけれど、兄の家光に被った大恩により、光圀(や義直)のように、秀吉が着手して中断したままの唐入り的なものの再開を将来に期すところの、真正日蓮主義者にすることには失敗し、結果として、あろうことか、円滑な倒幕維新成就阻害元凶藩たる会津松平藩というモンスターを生み出してしまった、というわけだ。」(コラム#15396(未公開))
その結果、加賀藩は、見かけ上は日蓮主義藩ながら、実態は、反日蓮主義藩に堕してしまい、そのまま幕末を迎えた、と。
恐らく、それが朝廷や列藩にも意外だったからこそ、直ちに朝敵の烙印を押されずに「厳しく問い質される」だけで済んだのではないでしょうかね。